フォルクスワーゲンにとって2019年は極めて重要な年だった。長らく続いた内燃機関の時代から大きく舵を切り、本格的な電気自動車(EV)の時代へと方針転換する決断を下したからだ。鍵を握るのは、20年に欧州を皮切りに発売されるEVの新モデル「ID.3」である。11月にドイツの工場で始まったID.3の量産は、VWのみならず自動車の歴史においても重要な出来事として刻まれる可能性がある。
TEXT BY DAISUKE TAKIMOTO
「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」──。アポロ11号の宇宙飛行士ニール・アームストロングが、1969年7月20日に月面に降り立ったときの言葉だ。この言葉を自動車業界に置き換えてみたとき、50年後の今年11月4日に世界最大級の自動車メーカーであるフォルクスワーゲン(VW)が電気自動車(EV)「ID.3」をツヴィッカウ工場で生産開始した瞬間は、「人類にとっての大きな飛躍」と言って過言ではないかもしれない。
「いまわたしたちは、まさにモビリティの新しい未来の途上にあります」と、ID.3の量産開始を記念する式典に出席したドイツのアンゲラ・メルケル首相は語った。「EVがビートルやゴルフのように誰もが手に入れられるような存在になる。まさしく“国民車”(ドイツ語でフォルクスワーゲン)になるのです」
メルケルが言う「ビートル」と「ゴルフ」は、いずれもVWの礎となってきたモデルだ。戦時中に国民に広くあまねく自動車を普及させるミッションのもと開発され、世界的に成功を収めたビートル。そして、いまもあらゆるメーカーの自動車開発の手本になっているゴルフは、8代目となる最新モデルが10月に発表されたところだ。
このように、VWどころか自動車の歴史においても重要な意味をもつクルマにたとえられるID.3とは、いったいVWにとって、そして人類にとってどんな飛躍をもたらす存在なのか。
VWの「新しい世界」
「フォルクスワーゲンの新しい世界へようこそ」──。ID.3は、そんな言葉とともに、9月のフランクフルトモーターショーで発表された。この小型EVは、モジュール化されたEV専用のプラットフォーム「MEB」を採用した最初のモデルとして、2020年半ばにドイツを皮切りに発売される。
だが、ID.3の発表は単なる新しいEVの発表ではない。それ以上に、来るEVの世紀に向けてVWがクルマを再定義し、新しい時代を迎えるという意思表示でもあるのだ。「フォルクスワーゲンは、EVをニッチな製品から社会の主流へと押し上げ、誰もが手の届くものにしたいと思っています」と、フォルクスワーゲングループ社長のヘルベルト・ディースは言う。
VWがID.3の発表と同時にブランドロゴの刷新を発表したのも、ID.3の重要性ゆえだろう。円の中に社名のVとWの文字を縦に重ねた立体感のあるロゴは、フラットでシンプルなデザインへと生まれ変わった。デジタルでの視認性を高めるのが狙いというが、決してそれだけではない。その真意は「新しい時代」への移行を宣言することにある。
「3度目の幕開け」の意味
発表会では、「新しいチャプター」「“3度目”の幕開け」といったキーワードが繰り返された。ここで言う「3度目」とはどういう意味なのか。
1度目はVWの通称「ビートル」の誕生だ。1940年代から本格的に量産されたビートルは、アドルフ・ヒトラーが打ち出した「国民車(フォルクスワーゲン)構想」のもと、のちにポルシェを創業するフェルディナント・ポルシェが設計して誕生した。ビートルには国民に広く自動車を普及させるというミッションが課せられ、結果的にドイツのみならず世界的に大成功したのだ。
そして2度目は、1974年の「ゴルフ」の誕生だった。ビートルの正統な後継車として開発されたゴルフは、丸っこくて愛らしいデザインのビートルとは対極にある角張ったデザインだが、イタリア人デザイナーのジョルジェット・ ジウジアーロによって実用性と合理性が極めて高いレヴェルでアップデートされていた。そしていまも小型車の基準たる“メートル原器”として、あらゆるメーカーの自動車開発の手本になっている。
その意志を継ぐ「3度目」が、EVの時代における国民車、すなわちID.3というわけだ。ディースは、「これこそがクルマ、と言えるクルマになった」と胸を張る。
確かにID.3は、小型車としてもEVとしても優れたスペックを誇る。自動ブレーキや自動運転技術といった従来モデルに搭載された安全技術はもちろんのこと、バッテリー容量によっては航続距離が最大550km、そして出力100kWの急速充電器を利用すれば30分の充電で約290kmを走行できる充電時間の短さなどは特筆すべきだろう。ドイツでの量産モデルのベース価格は30,000ユーロ(約354万円)未満になる見通しで、補助金を考慮すると従来の小型車に近い水準になる。
VWの強い意思表明
ディースは同時に、「進化する覚悟が必要であり、それを続けていく。変化をもたらす存在として社会を変えていこうと考えている」とも語っている。その象徴となるのが、カーボンニュートラルであることだ。
ID.3はサプライチェーン全体において、カーボンニュートラルに生産される最初のVW車になる。ID.3の量産が始まったVWのツヴィッカウ工場では、コンポーネントの生産からボディの製造、塗装、組み立てにいたるまで再生可能エネルギーのみでまかなっているという。また、ID.3に搭載されるバッテリーセルも、再生可能エネルギーのみを使用して生産されている。
つまりID.3の発表は、世界を揺るがした「ディーゼルゲート問題」で痛手を負ったVWがEVの時代に向けて退路を断ち、自らを変えていこうという強い決意表明でもある。そして自動車の生産から利用にいたるまで、あらゆるプロセスにおいて二酸化炭素の排出をなくしていこうという、自動車メーカーとしては極めて意欲的な取り組みでもある。
VWは28年までに約70車種のEVを投入し、2,200万台を世界で販売する計画を打ち出している。その計画の達成だけでなく、「EVを誰もが手に入れられるものにする」というディースの“約束”を実現していくうえで、ID.3の存在は大きな鍵を握ることになる。
そして当然のことながら、これまで二酸化炭素を大量に排出し、空気を汚してきた自動車が、カーボンニュートラルかつクリーンなモビリティへと生まれ変わることにもつながる。「人類にとっては大きな飛躍」と言えるかどうかは、歴史が証明することになるだろう。
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December 29, 2019 at 09:00AM
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