中欧研究・資料センター(Centropa)は中東欧の高齢のユダヤ教徒1200人を取材し、ホロコースト(大虐殺)の悲惨な状況を今に伝えている。
Centropaは、取材したユダヤ教徒の家族写真を複製した。そこには、ナチス・ドイツに殺害された3000人以上の人々が写っている。このうち数百人がアウシュヴィッツで亡くなった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は1945年1月27日、ソ連軍によって解放された。これにちなみ、この日はホロコースト記念日とされている。ナチスドイツはこの収容所で110万人を殺害したが、うち100万人近くがユダヤ人だった。
ポーランド
ジュリアン・グリングラスさん
「この写真は、私の妹バラとめいのジガです。1938年にキエルツェで撮影されました。
バラはこの時たぶん18歳、彼女のことが大好きでした。はつらつとして賢くて、活発で、私から見ても素敵でした。きれいな目をしていて、えくぼがありました。
女の子たちは写真館で働いていました。レタッチ技術を学んでいたんだと思います。
バラもジガもビルケナウの収容所に送られ、ただちにドイツ人に殺されました」
イレーナ・ウィゴヅカさん
「エストゥシアは、お気に入りのいとこでした。私たちは大の仲良しでした。
エストゥシアはチャーミングで賢かった。独学で学び、とても急進的でした。
彼女の父親はとても信心深くて、長いひげを伸ばしていましたが、彼女自身は共産主義に共感していました。党員ではなかったけれど、政治について話し合う友達がたくさんいました。
何にせよ、エストゥシアと両親は直接アウシュヴィッツに送られ、到着してすぐにガス室で殺されたと聞きました」
チェコ(旧チェコスロヴァキア)
アンナ・ヒンドラコヴァ
「この写真は、姉のゲルトルーダとフランティシェクが結婚した日の写真です。1941年10月にプラハで撮影されました。
フランティシェクは1916年生まれで、石炭会社で事務主任を務めていました。でも私が彼に会ったときはすでに、ユダヤ人だからと仕事を追われていました。私たちは3人で住んでいました。
最初は彼が好きになれなかった。私は当時13歳で、毎晩ひとりで皿洗いをしなくてはならなかったから。でもどちらかが私の日記を読んだんでしょう、そのうちフランティシェクが台所に来て、『きみは僕の義妹だ』とか『すてきな義妹さん』とか言ってくれるようになって、彼のことが大好きになりました。
フランティシェクがリパの労働施設、そしてやがてテレジン(強制収容所)に連行される、たった数週間前の話です。
姉は1941年12月にテレジンに行きました。2人は1943年に再会して、娘のヤナ・イヴァナが生まれました。
私たち家族は、父や母も含めて全員、ばらばらの時期にアウシュヴィッツに連行されました。家に戻ったのは私だけです」
トマン・ブロドさん
「母のオルガ・ブロドヴァと、兄のハヌスの写真です。1927年の撮影で、私はこの2年後に生まれました。
母はとても落ち着いた人でした。(中略)子供たちが跳びまわって叫んでいても、母は机に向かってくるみを割っていました。
一方で父は、もっと神経質で激情型でした。父は1938年に若くして亡くなりました。
母と兄と私は1942年7月27日にテレジンに連行されました。母はテレジンの環境にすぐに慣れて、心身に障害のある子どもたちのために看護師として働きました。
テレジンからアウシュヴィッツに移されたのは1943年12月です。私は強制労働をさせられ、戦争の終わりにやっと解放されました。
兄と母は、1944年に殺されたのだと思います」
イジ・フラネクさん
「兄のフランティシェク・フリシュマンです。1940年の写真です。
フランティシェクは私の1つ年上で、私より才能があり、賢く、学校の成績も良かった。背が高くて力も強くて、美男でした。少なくみつもっても半径20キロにいる女の子は、みんな彼に夢中でした。
兄をドイツ人から逃がすため、おじがスイス国境までの旅費を出すと言いました。高い報酬でスイス国境まで案内すると約束したガイドさせ、見つけてきたのです。兄はスイスからさらにフランスへと渡る予定でした。
準備が全て整い、家族も承知していましたが、家族は『何があっても学業を終えて卒業すること』と言っていました。
しかしそうしているうちに、兄が向かうはずだったパリが、ドイツ軍に占領されたのです。
兄は結局、逃げられませんでした。アウシュヴィッツに送られ、生き延びられませんでした。でもこれは、苦いものではありますが、家族がいかに教育を重視していたかの証明でもあります」
ルーマニア
エステラ・サヴァさん
「これはきょうだいのアヌタ・マルティネットの写真です。
アヌタの夢は医者になることでした。高校をトップの成績で卒業した後、(ルーマニア北東部の)ヤシの医学校へ入学するために家を出ました。
しかしヤシではすでに反ユダヤ運動が始まっていて、『おいユダヤ人、家へ帰れ、ユダヤ人の医者なか要らない!』と言われたのです。
アヌタは留学を決め、イタリアのパドゥアへ行きました。医師免許の試験は1939年6月、それをトップの成績で合格したんです!
彼女は父に、『ルーマニアには帰らない、いい生活が望めないから。私はフランスに行きます!』と言いました。モンペリエに親類がいたのでそこへ向かいました。
モンペリエで勉強し、キリスト教カトリックの男性と結婚し、もうすぐ学位が取れるというところまで行きました。
それも全て無駄になりました。ドイツ人に連行され、アウシュヴィッツなどさまざまな強制収容所で働いたと聞きました。ドイツ人はそれから、彼女を殺したんです」
ステファン・グートさん
「いとこのトミ・ホーニヒです。父のきょうだい、ベラの息子です。
ベラはミクロシュ・ホーニヒというユダヤ人の男性と結婚しました。ミクロシュはトランシルヴァニア地方オラデアにあった最高級ホテルのレストラン職員で、ベラは主婦でした。ベラにはオットーとトミの2人の息子がいました。
父はベラのことが大好きで、オラデアに行くたびにその家に泊まっていました。
戦争が始まったとき、父はブラショフでミクロシュとベラたちのことを待っていました。でも、待っても待っても誰も現れなかった。それからしばらくして、トランシルヴァニア地方のユダヤ教徒が連行されたというニュースがありました。
結局、戻ってきたのはミクロシュのきょうだいだけでした。彼は生き延び、トミを含む家族全員が亡くなったと知らせてくれました」
ミハリ・アイシコヴィツさん
「これは母ロージの妹ボージと、その娘の写真です。
母は7人きょうだいの1人でしたが、その中でアウシュビッツから生還したのは1人だけでした。
ボージは、サルマシュ出身のトウモロコシ商人デジョと結婚し、クルジュ・ナポカに住んでいました。2人には息子のアンドリシュと、この写真に写っている娘がいました。
強制収容所に連行されたとき、息子の方が5歳くらい、娘は1歳半か2歳くらいだったと思います。ボージの家族は全員、1944年にアウシュヴィッツで殺されました」
エルザ・フロプさん
「これはきょうだいのマルギットの息子、ティボル・シュジネタルです。
私たちきょうだいにとって、ただ1人の甥でした。私たちがどれだけあの子を大事にしたか、分かるでしょう!
バル・ミツワー(ユダヤ教の成人式、男性は13歳)を迎えたとき、ティボルは両親に育ててくれたことを感謝し、それから……いまだにこれを思い出すと泣けてしまうのですが……私の父に向かって、感極まりながら『おじいさん、どれだけ感謝すればいいか……』と話し始めたんです。ティボルは最後まで続けられませんでした。ティボルは祖父を抱きしめて、2人が泣き、その場にいた全員が泣きました。
私たちはアギレシュの田舎に住んでいました。ティボルが庭に立っていると、ニワトリやアヒルやガチョウがその肩や頭に乗りました。私たちや近所の人が飼っている仔牛の名前を、ティボルは全て覚えていました。
道端でお年寄りをみかければ、手をとって道を渡るのを手伝うような子でした。本当に素晴らしい子だったんです!
大きくなると、ティボルは両親に連れられてクルジュ・ナポカへ移りました。(ドイツ人が)彼を連れて行ったのは15歳の時。アウシュヴィッツで殺されました」
ハンガリー
マルタ・フェヘルさん
ここに写っているのは、ボージと息子のイミケです。
ボージは、私の母のきょうだいナンドルの奥さんでした。この写真は1944年初めに撮られたと記憶しています。
ドイツ人はその年にやって来ました。多くの男性が強制労働に連れて行かれ、5月には老人や女性、子どもたちが収容所に連行されました。
ボージとイミケは直接アウシュヴィッツに連れて行かれました」
エルノ・シュヴァルツさん
娘のロージ・シュヴァルツの写真です。ブダペストのペスターゼベットで1939年に撮りました。
妻とはレーベンヴルヅルの工場で働いていたときに知り合いました。
1936年にカジンツィ(通りのシナゴーグ)で結婚式を挙げました。大勢の人と花で埋め尽くされて、中庭に入りきらないほどでした。同僚たちもみんないました。
妻は、2人の子どもと一緒に連行されました。それが最後の輸送で、誰も戻ってこなかった。
家族がアウシュヴィッツに行かされたといつ知ったのか、覚えていません。自分は強制労働をさせられていました」
写真の著作権はすべてCentropaに属します
"に" - Google ニュース
January 28, 2020 at 11:31AM
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【写真で見る】 ホロコーストに引き裂かれた家族たち - BBCニュース
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