ウイスキーを取り巻く環境は、近年目まぐるしく変化してきています。
もしかすると、昔のウイスキーのイメージをそのまま持っている人にとっては、まったく別物になっているかもしれません。
特にジャパニーズウイスキーに対する評価は、うなぎのぼりです。
世界中の酒類コンペで最高賞を受賞し、今ではオークションの高額落札品の常連となっています。(「はじめに」より)
ウイスキー評論家、ウイスキー文化研究所代表という肩書を持つ『ビジネスに効く教養としてのジャパニーズウイスキー』(土屋 守 著、祥伝社)の著者は、本書の冒頭でこう述べています。
しかし残念ながら、多くの日本人が自国のウイスキーについて知らないことも事実。
世界には日本のウイスキーのことを知りたがっている人が大勢いるのに、肝心の日本人がウイスキーの教養を持ち合わせていないわけです。
現在、新型コロナウイルスの感染拡大でインバウンドは大きく落ち込んでいますが、収束すれば旧に倍する人々が世界中からやってくるでしょう。
国際化やグローバル化はますます加速していきますが、そのときに必要なのは何かーー国際社会を生き抜くビジネスパーソンにとって、私はウイスキーの知識、なかでもジャパニーズウイスキーの知識が武器になると考えています。
だからこそ、ジャパニーズウイスキーとはどういうものなのか。
基本。歴史。現在・課題といったことをこの一冊に凝縮して、一人でも多くの人にお伝えしたいのです。(「はじめに」より)
ところで日本人は、いつからウイスキーを飲んでいるのでしょうか?
第1章「日本人とウイスキー」のなかから、興味深いエピソードを抜き出してみたいと思います。
日本に初めてウイスキーを持ち込んだのは誰?
これまで、日本に初めてウイスキーを持ち込んだ人物と考えられてきたのは、イギリス人(正確にはイングランド人)の三浦按針(みうらあんじん 本名ウィリアム・アダムス)だったそう。
三浦は、イギリス海軍に入って船長を務めたのち、軍を離れてオランダへ渡り、1598(慶長3)年、オランダの商船であるリーフデ号に乗船。
リーフデ号は航海の途中で暴風に遭い、1600(慶長5)年、今の大分県に漂着しました。
その後、三浦は徳川家康と会見。以降、三浦按針と名乗り、家康の外交顧問を務めました。(56ページより)
三浦がウイスキーを日本に持ち込んで家康に献上したため、家康がウイスキーを飲んだ最初の日本人であると考えられてきたのだとか。
しかしイギリスの歴史を考えれば、この説は誤りだろうと著者はいいます。
イギリスが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと4つの地域で構成されているのは周知のとおり。
スコットランドとイングランドが、同じ君主を戴いて連合する「同君連合」となったのは1603(慶長8)年でした。
三浦がリーフデ号に乗船したのは1598年であり、つまりはスコットランドとイングランドが同君連合になる前。そして三浦がイングランドに暮らしていた時期、すでにスコットランドではウイスキーがつくられていたそうです。
とはいえ当時のイングランド人は、スコットランドの地酒にすぎなかったウイスキーなど、飲んだことも聞いたこともなかったはず。
したがって、三浦がわざわざスコットランドの酒をオランダに持ち込んで船に乗せ、徳川家康に飲ませたとは考えにくいわけです。
そのため、日本に漂流した外国人である三浦が持ち込んだという説が崩れるわけです。では逆のパターンはどうでしょう?
漂流した日本人が海外でウイスキーを飲んだとか、あるいはそれを日本に持ち帰った可能性です。
江戸時代に海外に行った日本人として有名なのは、大黒屋光太夫と中浜万次郎(ジョン万次郎)です。
伊勢国の商人だった大黒屋は、江戸への航行中に台風に遭い、7カ月余りの漂流の末にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後、ロシアに10年間滞留し、1791(寛政3)年にエカチェリーナ2世に謁見しています。
一方の中浜は土佐の漁師の息子でした。1841(天保12)年、出漁中に遭難したところをアメリカ船に救われ、1843(天保14)年にアメリカのマサチューセッツ州に到着します。(58ページより)
大黒屋も中浜も海外に10年ほど滞在し、そののち日本に帰国しています。
でも、ふたりは海外滞在中にウイスキーを飲む機会があったのでしょうか? この疑問について、大黒屋はなかったはずだと著者は推測しています。
なぜなら大黒屋がロシアにいた時期、スコットランドではウイスキーの密造がさかんに行われており、政府公認の蒸留所はなかったから。
アイルランドも似たような状況だったので、そうした土地のウイスキーがロシアに出回っていたとは考えにくいわけです。
もちろん、その時代にロシアでウイスキーがつくられていたという話もないそうです。
中浜が滞在していたころのアメリカではすでにウイスキーがつくられていましたが、その主要な生産地はケンタッキー州やバージニア州。
中浜のいたマサチューセッツ州でウイスキーがつくられていた記録はなく、しかも同州はイングランド出身のピューリタン(清教徒)が多数移住した地域。
道徳的戒律を重んじる彼らが、ウイスキーをつくっていた可能性は低いのです。(56ページより)
ペリー率いる黒船がもたらしたもの
だとすれば、日本で最初にウイスキーが飲まれたのはいつなのか?
有力なのは、江戸時代末期の1853(嘉永6)年、黒船来航の際に持ち込まれたウイスキーを、初めて日本人が飲んだという説だそうです。
1852(嘉永5)年11月、東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国を迫るため蒸気軍艦ミシシッピ号に乗ってアメリカのノーフォーク軍港を出発しました。
翌年5月には琉球に到着し、琉球王朝から手厚いもてなしを受けたといいます。
そのお礼としてペリーは船上でパーティーを催し、琉球王国の高官・尚宏勲(シャンハンヒュン)らを招待。
西洋のあらゆるお酒や料理が供され、スコッチウイスキーやアメリカンウイスキーもあったと、『ペルリ提督日本遠征記』に記されているというのです。
そして、その後の7月にペリー一行は浦賀へ。
このときペリーとの交渉にあたった主要メンバーが、幕府の役人である中島三郎助と香山栄左衛門、そして通訳の堀達之助。
ペリー一行は3人を船に招いて西洋料理と飲み物を振る舞いますが、そこには当然ウイスキーも。アメリカの記録官は、ウイスキーを飲んだ3人の様子を次のように記しているそうです。
ことのほか日本の役人はジョンバーリーコーンがお好きで、着物の懐にハムを詰め込み、酔っ払って真っ赤な顔で船から降りていった。(60ページより)
ちなみにジョンバーリーコーンは、西洋ではよく使われたウイスキーの愛称。
いずれにしてもこの記録によれば、日本に初めてウイスキーを持ち込んだのはペリーとその一行で、それを最初に飲んだ日本人はペリー一行の接待にあずかった日本人たちということになります。
黒船がもたらしたのは開国だけではなく、ウイスキーをはじめとする西洋文化だったというわけです。(59ページより)
*
日本のウイスキーは、もうすぐ誕生から100年を迎えるそうです。
本書を通じてその歴史やビジネスとしてのポテンシャルを知れば、それをビジネスのシーンで生かせるかも知れません。
この週末、気になっていたウイスキーを楽しみながら、ゆっくりとページをめくってみてはいかがでしょうか?
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Source: 祥伝社
Photo: 印南敦史
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October 09, 2020 at 04:30AM
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