コリン・イネス(寄稿)
1945年8月6日の朝、広島市内に住む三千子さんは寝坊した。
「電車を1本遅らせても仕事には間に合うけれど、走ればいつもの電車に間に合うはず。そう思ったのを覚えている」
三千子さんは晩年、その日のことを思い出してこうしたためている。
「私は横川駅まで走って、いつもの電車に飛び乗った」
この判断が三千子さんの命を救った。広島に最初の原子力爆弾が落とされたその時、三千子さんは無事に職場に到着していた。
「もしいつもの電車に乗り遅れていたら、横川駅と広島駅の間のどこかで死んでいただろう」
吉束三千子さんは当時14歳。広島市中心部にある女学校に通っていた。しかし市が学徒動員を決めてからは、市街地から8キロほど東にある工場で帝国軍の兵器を作る仕事に就いた。
8月6日に三千子さんが寝坊したのは、怠惰というよりは疲労のためだった。
工場での勤務は長時間にわたった。戦争による食糧不足で三千子さんは空腹に悩まされていた。そして前日の5日夜には(他の日と同様)、アメリカの爆撃機B-29が広島上空を飛び回り、市内には空襲警報が出されていた。
警報が解除されたのは朝の7時だったという。
しかし、アメリカ政府の原爆開発チーム「マンハッタン・プロジェクト」以外で、この後に来る大惨事を予想できた者はいなかった。
マリアナ諸島・テニアン島の米軍基地から「エノラ・ゲイ」が広島に向かったのは、その数時間前のことだった。
午前8時15分、エノラ・ゲイはアメリカ人が親しげに「リトル・ボーイ」と呼ぶ原爆を広島に投下した。
この原爆により、投下直後から数カ月後にかけて約14万人が亡くなったと推定されている。
三千子さんは生き延びた。工場と市中心部の間に横たわる比治山が、爆発の衝撃を防いでくれたのだ。
三千子さんは、比治山の向こうに上がる煙を眺めたという。
混乱の中、三千子さんは親戚の家のある祇園地区を目指し、中山峠へと向かった。その道行きで、市外へと逃げる何千人もの人たちとすれ違った。
「けが人だらけだった。やけどと膿だらけの人、爆風で目玉が飛び出てしまった人、体や口から内臓が飛び出ている人、そういう人がたくさんいた」
「歩いていると、突然誰かに足首をつかまれた。『お嬢さん、水をもらえませんか?』 私はその手を払いのけて(中略)『ごめんなさい、ごめんなさい!』と言うしかなかった。恐怖でいっぱいで、そのまま逃げ出した」
祇園地区に着いて、三千子さんは母親と再会することができた。しかし回復を待つ時間はなかった。
「そこから10日間、母と私は広島中を歩き回って、兵隊だった兄を探した。後になって(中略)兄が爆心地付近で亡くなったことを知った(中略)兄の遺骨は見つけられなかった」
三千子さんは命こそ助かったが、やがて体調を崩した。
「放射線障害の症状が出始めた(中略)はぐきや鼻から出血し、ひどい下痢を起こし、髪の毛が抜け、体中に紫斑が出た」
「家族の友人宅の物置に隔離されて生死をさまよった。誰もが私は死ぬと思っていたけれど、奇跡的に生き延びた」
広島と長崎への原爆投下そのものが戦争を終わらせたわけではない。
アメリカ海軍による包囲網、ロシアの侵攻、そしてポツダム宣言で天皇制の維持を示唆されたことが決定打となった。
8月15日、昭和天皇は全国に向けての放送で降伏を発表した。日本は「耐えがたきを耐え」なくてはならないというその言葉に、多くの広島市民はあ然とした。
彼らはもうすでに、耐えがたきを耐えたのではなかったのか?
終戦からの数日、数週間、数カ月で、広島はその回復力を見せ付けた。
原爆投下から数日後には、電車やバスの運行が再開された。2カ月後には、半壊した校舎や青空教室で学校が再開された。
市内の金融機関で唯一、建物の倒壊を免れた日本銀行は、建物内で他の銀行が窓口を開くことを許可した。
広島は文字通り、灰の中から立ち上がった。
三千子さんも、人生を立て直しつつあった。
「1948年、18歳の時に結婚し、1949年4月に女の子を産んだ。この子は2週間後に亡くなった。原爆の後遺症のせいだと思う」
その後、三千子さんは2人の健康な子どもを生んで育てたが、別の問題が浮かび上がった。夫がたびたび家を離れ、三千子さんの給料を持って愛人の元へ行くようになったのだ。
原爆症による疲労感と夫の浮気に悩まされ、現状からの自由がほしかった三千子さんは、子どもを親戚に預けることが多くなった。子どもと一緒にいる時は、娘の早苗さんに当たってしまうこともあったという。
「1964年、母ががんで亡くなった。私は家族の中で孤立した。母は戦没者遺族年金を受け取っていたが、母の死で停止されてしまった」
さらに、夫が浮気を認め、愛人を選んで家を出て行った。夫からも国からも経済的支援を受けられなくなった三千子さんは生活にも苦労した。料亭での仕事を見つけた三千子さんは、毎晩和服を着て、夜遅くまで働いた。
広島では毎年8月6日に平和祈念式典が開かれ、これまでにマザー・テレサやキューバのフィデル・カストロ議長、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領などが出席した。しかし三千子さんは、原爆が投下されたその日に見た光景と、軽々しい平和への演説を結び付けられず、式典に参加したことはなかった。
代わりに、夕方から元安川で行われるとうろう流しを見ることはあったという。
三千子さんと娘の早苗さんの関係が徐々に改善されたのは、早苗さんに2人の子どもが生まれた後だった。お盆の時期に早苗さんの家族を訪ね、一緒に原爆を描いたテレビドラマを見ることもあった。
「あんなものじゃない!」と三千子さんが言っていたのを、早苗さん家族は覚えているという。
三千子さんはその生涯を通じ、ほとんど1945年の出来事について語らなかった。しかし原爆投下から50年目を迎えた1995年、かかりつけの医師から、ひとつの区切りになるからと手記を書くよう勧められた。
三千子さんは最初のうちこそ乗り気でなかったが、最後には書くことを受け入れた。書かなければ、自分の記憶は永遠に失われてしまうと気付いたからだ。
その頃には、広島は大きな並木通りが延び、立派なデパートが立ち並ぶ、活気ある現代の街になっていた。悲劇的な過去を示すものはほとんど残っていなかった。
三千子さんは市街地近くの公営アパートに住んでいたが、その後、市の東側の戸坂に引っ越した。戸坂はあの日、三千子さんが通った中山峠に近い。
峠への道中に足首をつかまれた記憶は、その後も三千子さんを苦しめた。
「あの時の声は一生、記憶から消せないだろう」
私が初めて広島に移り住んだ時、その歴史についてはほとんど知らなかった。でも佳織さんという女性と出会い、彼女が祖母の三千子さんの物語を教えてくれた。
数年後、夫婦となった私たちは三千子さんの手記を英語に翻訳した。三千子さんの悲しい物語と、生き延びようという決意に心を打たれたのだ。
妻によると、三千子さんは晩年、うつをわずらっていたという。
本音よりも建前を重視する日本社会の中で、意志の強い三千子さんは常に友達を作るのに苦労していた。それが後になって、本当の孤独感へとつながった。さらに認知症をわずらった三千子さんは、介護施設に移り住んだ。亡くなったのは2012年1月のことだ。
三千子さんの手記は今、広島の原爆死没者追悼平和祈念館に収蔵されている。歴史を、そして彼女の人生を永久に変えてしまった日の記憶だ。
手記の最後の言葉には、逆境を乗り越え、人生を建て直す人間の強さが示されている。
「原爆投下から50周年を迎えた今、私は命の大切さを改めて痛感している」
<編集注:三千子さんの手記部分は、この記事の筆者コリン・イネスさんが英訳したものを編集部で日本語に訳しています>
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August 07, 2020 at 10:42AM
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